1498(明応7)年、小田原北条氏の代官として来島した家柄です。北条氏の命令に背いて帰任しなかったため切腹を命ぜられ(そのため、長戸路姓を浅沼姓に変更しまた)、北条氏との関係はなくなりましたが、子孫は末吉の有力家として続き、江戸時代後期には、御船預り(おふねあずかり)、地役人、神主などを勤め、姓も長戸路に許されて戻しました。現在も、流人石山留五郎が棟梁として建築した急勾配の屋根、書院造りの屋敷は残っています。八丈島で唯一残る12脚の高倉(都指定文化財)などもあります。入口に大きな石垣がありますが、江戸時代中期ぐらいに造られたもので、立派な長屋門があって、代官巡検の時に立派すぎてまずいということで壊したともいわれています。 屋敷の構えは、往時の豪家の姿を今日に伝えているが、公開はされていません。同家に関する史料や御用留などの公文書を多く所蔵していて都の文化財に指定されているものもありますが、現在地にはなく、特に重要な物は東京都公文書館に委託管理されています。 末吉(すえよし)では、1859(安政6)年、長戸路収蔵が私費を投じて水源を桑谷ヶ洞(くわやがほら)に求めて竹や杉の木の樋(とい)を使った水道を集落に引き、島内での水道事業の先駆けとなりました。この事業に対する顕彰碑が1878(明治11)年長戸路十兵衛によって建てられ、敷地内にあって、町の指定文化財 になっています。