永見大蔵は、1681(延宝9)年6月流罪、1701(元禄14)年4月5日没。在島21年。「自分は字が書けない」などと思いあがった主張をしており、八丈島で千両箱を枕(まくら)に餓死(がし)したという話が伝わっています。越後騒動のお為方(おためがた。自分たちでそう呼んだ。反対派を逆意方と呼んだ)の中心人物で、勝負には勝ったけれども、喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)で、八丈島に流罪になりました。長楽寺に彼の遺品がありましたが焼失しています。墓所は粥倉(かいぐら)墓地の流人墓。同じ越後騒動の仲間・荻田主馬と同じ場所です。 越後騒動とは、徳川御三家に次ぐ家柄といわれ、家康の次男・秀康(ひでやす)の子松平忠直(福井藩主67万石)の支配地の一部であった越後・高田での事件です。忠直は夫人の家康の娘を殺そうとしたり、老臣永見家を滅ぼすなどしたり、幕府への思い上がりの行動もあったため、豊後(ぶんご。大分)に流され、そこで亡くなりました 。永見大蔵は、豊後で生まれた忠直の子どもであります。高田藩26万石は、忠直の子・光長に引き継がれました。光長は、10歳で家を継ぎ、その10年後に越後の国に入りましたが、60年の在職中ほとんど江戸にいて、政治は国家老(くにがろう)に任せっきりでした。最初の40年は家老たち(小栗五郎左衛門、荻田隼人(はやと)・主馬)の努力で安泰でしたが、大地震などもあり、家老の世代交代が進みました。この時、光長の子・綱賢(つなかた)が病死し、後継ぎを決めてなかったためお家騒動が起きました。筆頭家老の小栗正矩(1万4千石)、対、永見大蔵(9千石)・荻田主馬(1万2千石)の2派の対立がありました。当初、永見側の意向が通りましたが、大老酒井忠清の裁定で小栗側にひっくり返り(多分光長の意向でそうなった)、内紛が続きました。 ところが、光長たちが反対していた綱吉が5代将軍に就任したため、将軍の裁定でさらに決定はひっくり返り、光長は取りつぶし、小栗は切腹、永見と荻田は八丈流罪となりました。綱吉の復讐(ふくしゅう)です。 光長は7年後に許され、津山藩10万石を与えられたが、小栗の関係者を連れて津山に行ったといわれています。