梅辻規清は京都上加茂の社人。飛弾守(ひだのかみ)と号す。全国を歩き回り、神道・国学・天文・暦学に精通し、江戸に瑞烏園(ずいうえん)を開いて神道を主張・宣伝し、内弟子や信者が数千人になったといわれています。幕府はそのようすを恐れ、1847(弘化4)年八丈島に流罪になりました。在島14年になる1861(文久元)年、64歳で病死しました。八丈島流罪の学者の中で従五位と最高の位であり、「鼠退治(ねずみたいじ)」の法を心得ていて、三宅島の島民からも感謝されたといわれています。著書多数。養蚕法を末吉に伝えた、流人の八郎とも交流がありました。