創建年代は不明ですが、600年ぐらい前に、火事で御堂ヶ沢(みどうがさわ)から現在地に移転され、1024~1027(万寿年中)に後一条天皇から賜ったとされる白い色をした御影石の地蔵尊を祀るとされています。釈迦、阿弥陀、薬師も祀ってます。近藤富蔵が作った仏像や仏龕(ぶつがん)、ヴィクトリア銘洋鐘、1803(享和3)年銘の銅製鉦鼓があります(後者2つは町指定文化財 )。 ヴィクトリア銘洋鐘は、幕府の洋式船・長崎丸(『八丈実記』では第二長崎丸)が1864(元治元)年、長崎発で江戸に向かい、藍ヶ江(あいがえ)で座礁し、人も荷物も陸揚げされたが、船体は沈没し、この鐘は後にひきあげられたため、ここに残ったと思われます。長崎丸は、イギリスから買い上げたオーストラリアで建造された船で、ヴィクトリアという船号でした。長崎丸の記録は、『八丈実記』にのみ残っていて、第二長崎丸は正規には(第一)長崎丸で、本来の第一長崎丸は勝海舟(公式の)の記録にないので、八丈で考える第一長崎丸は実態がなかったものと思われています。(第二)長崎丸には蘭方医の緒方精斎(おがたせいさい)や吉雄幸次(よしおこうじ)が乗っており、種痘を八丈で行ったといわれています(日本では時期が早い方という)。11月24に座礁して、幕府への連絡は3月15日(本土での沈船手続きは、すでに3月3日に終了済み)、4月18日に山下船で江戸に向かったといわれています。その当時、八丈では金銭は通用していなかったが、この時に初めて通用したといわれています。 境内には、1766(明和3)年から4年間八丈島に凶作が続き、中之郷で733人が餓死し400人ほどが生き残ったので、その冥福を祈って、1890(明治23)年に有志が建立した餓死者冥福之碑や幕府の幕末小笠原探検に同行させられた幕末から明治中期に活躍した菊池作次郎の顕彰碑もあります。 隣家には、都指定文化財の1307(徳治2)年の銅鉦鼓(応楽銘の鉦)があります。