中将院は、1685(貞享2)年3月、31歳の時に流罪。1689(元禄2)年正月4日、36歳で八丈島で一緒になった妻と火に入り自害しました。彼は大納言坊城俊完卿(だいなごんぼうじょうしゅんかんきょう)の末子で修験法(しゅげんほう)を会得(えとく)し、当時樫立(かしたて)中平で夜な夜な現れては通りがかりの女、子どもに悪ふざけをしていた鬼を退治して、乙代ヶ浜(おっちょがはま)の上の諏訪(すわ)の庁におさめて以来、鬼の悪ふざけの心配がなくなり、樫立村の村民は彼を神として尊敬したといわれています。明治初年頃には、樫立村川城羅(かわじょうら)の農業、奥山留之助が耕していた水田のまん中にこの石室がぽつんとありましたが、これが中将院の祠で、現在は田んぼはなくなり、畑の中になっています。墓ができてから、イブリヤの池が造られて水田化され、その後、戦後の減反政策で田んぼがなくなり畑化した結果です。