ガイド選択画面に戻る

服部屋敷

服部家は江戸時代の1740年から幕末まで、幕府所有の御用船を預かり、運航を委ねられていた「御船預り(おふねあずかり」で、屋敷は当時のものではありませんが高台にあり、玉石垣(たまいしがき)の通用入口は当時の豪勢さがしのばれる屋敷跡です。  1700年代末から約13年間、御船預りを務めた服部義高は、天明5年に先代の船が城下で破船、当主が溺死したため、三宅から養子に入りました 。世継ぎが成長したため退役しましたが、現代も海事関係者から評価されている「廻船安乗録(かいせんあんじょうろく)」1810(文化7 )年刊を残したほか、八丈島の歴史や文化、産業などを知ることができる「八丈裁衣織(はちじょうたちぎおり)」1811(文化8年)刊も著しました。  入口石垣の所のソテツ は、服部弘道が長戸路家から婿に来た時に持って来た物で、建物内部には咸臨丸で渡米した使節団の一員で、福沢諭吉などと6人で写った有名な写真の中の1人である濱口興右衛門(はまぐちおきえもん)の関連展示がされています。興右衛門は、将軍付きの医者であった太田道寿(どうじゅ)の孫で、道寿は9代将軍家重の気がすぐれないため、芸者を長櫃(ながびつ)に入れて城内に入れたことがバレて、大奥ににらまれ流罪になったともいわれています。興右衛門は流人の子孫でしたが、浦賀の濱口家に養子に入り、勝海舟などと一緒に長崎伝習所の一期生となり、明治維新後は横須賀造船所や海軍省に勤めました。流罪の話は一切しなかったといわれています。  現在、服部屋敷では八丈太鼓や踊りなどを披露していますが、服部家の子孫の方は、大島に移住しています。

前のページに戻る