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不受布施僧の墓

不受不施派は、日蓮宗(にちれんしゅう)の一派で、江戸時代にキリスト教と並んで弾圧(だんあつ)されました。現在の本山は、岡山市金川にある妙覚寺(みょうかくじ)です。  弾圧の起こりは、豊臣秀吉の1595(文禄4)年の京都方広寺大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)でした。日蓮宗は元々が信者でないものに対しては、宗教的な対応をしない(拝んだり寄進をしない)というのが考え方の根本でしたが、この時多くの日蓮宗の僧侶は秀吉の権力を恐れてこの開眼供養に参加し、ただ一人京都妙覚寺の日奥(にちおう)は参加をしませんでした(参加した者は受不施派、日奥は不受不施派といわれました)。秀吉は日奥一人だけだったので、特に弾圧することもなく見過ごしにしましたが、日蓮宗の他寺の僧たちからの激しい迫害にさらされました。  その後、家康の時代になっても、日奥の態度は変わらなかったため、家康による大坂での対論が行われました。しかし、日奥は態度を変えず、家康は激怒し、日奥を対馬に流罪にしました。この結果、近畿圏の不受不施派の寺院はなくなりました。その後、日蓮宗身延派(みのぶは)からの訴えがあり、江戸で幕府による身池(受不施の身延派と不受不施派の池上本門寺派)対論が行われました。当然池上派は敗者となり、多くの僧が弾圧されました(日奥は既に死亡していた)。このため、関東圏の不受不施派もなくなってしまいました。  徳川幕府は、1666(寛文6)年、さらに不受不施派禁止の厳しい命令を下し、その意に従わなかった者は弾圧されました。そのため、不受不施派は、キリスト教と同様に、表面は他の寺の檀徒(だんと)になりながら地下に潜って信仰活動を続けることになっていきました。キリスト教とともに1876(明治9)年にこの禁止制度がなくなるまでに、死罪は156名、遠島に処せられた者は181名に及んだといわれています。八丈島には同派関係の流罪者が25名ほど送られてきています。本土では秘密行動を強いられていましたが、島に流されると、捕まる心配がなく、文通も許され仕送りもあって、過不足のない生活ができたといわれています。  樫立(かしたて)・伊婆之郷(いばのごう)墓地には、岡山の妙覚寺の力で、昭和58年に島内各地の墓石が一か所にまとめられています。建てられている同派の僧は、日要、日巡、日進、日助、日憶、日雄、日貞、日顕、日成、日用、他九人の20人ほどです。  なお、この墓の中の日要は、樫立の出身で、12歳で流僧日巡の弟子となり、父に伴われて岡山の吉川に行き、中之郷(なかのごう)出身の日諫とともに捕らわれました(吉川法難)。2人とも、江戸に送られ、牢死しました(日用17歳、日諫20歳ぐらい)。

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