この神社は、明治末から大正初めに、八郎神社と称する八丈小島の為朝神社を、個人で分社したものです。付近に、城山(戦国時代の小田原北条氏の砦跡で為朝の城祉ともされる)、腰掛石、耳あと石などがあります。八丈島では、八丈にいて攻められた為朝が、八丈小島で自害したとされ、1173(承安3)年、高倉天皇から「八郎明神」の神号が下されています(『縁起叢書』)。源頼朝からの奉納品があったとされ、徳川家康が奉納した為朝の神像のほか、鎧兜など公家や代官らからの奉納品の数々が、1815(文化12)年に小島を測量した伊能忠敬測量団の日記に記録され、巡検で来た代官などが補修しています 。 為朝が八丈に来たかどうかについては、八丈では従来「来たという根拠がない」とされてきましたが、実は『保元物語』の初期本では、為朝は大活躍して大島に流された後、八丈島に渡って来たことになっており(これが滝沢馬琴の『椿説弓張月』に反映されている)、最後に大島で自害したとされているものです。 『保元物語』は、中期本以降は、為朝中心でなく、天皇・公家中心に描かれた「もののあわれ」を描いており、そちらが主流になったため、初期本は見捨てられて、島での活躍の記事は表に出なくなり、八丈には来ていないことになってしまっています。 小島の為朝神社には、徳川家康の命で造られた銅製為朝神像があり、都の指定文化財 になっています。為朝が疱瘡除け(ほうそうよけ)の神様ということになっていたので、疱瘡除けということで江戸に4回運ばれ、将軍家や一般町民にも御開帳されています。天明5年の服部船の破船の時には城下の海底に沈みましたが、後に探し出されたということです。なお、同神社の本地地蔵菩薩も、1回江戸への出開帳をしています。 八丈小島は1969(昭和44)年の住民総引揚げにより無人島になり、神社はコンクリート部分は残るが、朽ちてしまっています。巫女のお告げで、「為朝の魂は小島に残る」ということで残りましたが、都の指定文化財の神像などは八丈島歴史民俗資料館に 展示しています。