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八丈島役所跡/陣屋跡

玉石垣を巡らした9,000㎡の敷地は、戦国時代から380年間島政の中心地でしたが、現在は昔の面影を留めるのは玉石垣のみとなっています。  大里のこの場所に陣屋が置かれたのは、北条早雲の代官中村次郎が来島した室町時代末期(戦国時代)の1529(享禄2)年といわれています。それ以前に八丈島を支配したのは、神奈川の奥山氏で、岡里と総称される現在の中村商店あたりが中心地であったと考えられています。長楽寺の元である大善寺や優婆夷神社もそのあたりにあったと考えられるといわれています。  小田原北条氏は、石垣でなく土塁を築く築城法だったといわれています。また、城だけでなく「総構(そうがま)え」といって広い範囲を土塁で守り、中に一般住民も住まわせ、田畑や飲み水も確保して長期戦にも耐えられるようするというものでした。  大里の城山は1522年に城が造られたとされています。そこには、第2次世界大戦中に軍が手を入れたり、戦後農道工事が行われたりで一部が損なわれていますが、立派な土塁が残されていて、小田原北条氏の城造りを踏襲しています。城山の築城と陣屋の設置はあまり時間差がないので、陣屋も玉石垣ではなく土塁で守られていたのではないかと思われます。つまり、樫立の伊郷名に通じる旧道の出口あたりから現在の高い玉石垣の所、元長楽寺の前、元大里会館の海側を通り、地番1074あたりにつながっていたのではないかということです。 現地に行ってみると、かなりの段差がみられ、そこは、旧道があったと言われるところです。現在は、大正10年代ぐらいにできた新道(現在の都道)があり、大きく様変わりしています。この囲まれた範囲の中は、水源もあり、玉石垣も低く、それなりの平地も存在しているので、「総構え」を想定することができます。土塁から玉石垣になったのは、記録も何もなく不明ですが、羽倉外記代官(1835年ころ)の時は石垣になっているので、江戸中期以前ではないかと思われます。  江戸時代初期には陣屋と言われていましたが、代官や手代が渡島するようになると御仮屋と言われました。1798(寛政10)年に再び陣屋といわれるようになりました。   陣屋は、置かれてからは、ここが島の政治の中心で代官や手代が起居し、その後代官などが来なくなってからは地役人(地元に住む島の役人)が出仕するところとなったのです。黄八丈の染場もあったようです。  明治に入ると、陣屋は正式に島役所と改称され、さらに、1900(明治33)年には東京府の島庁と呼ばれるようになり、本土から島司が来るようになりました。島庁1908(明治41)年に向里(現在の八丈島歴史民俗資料館)へ移転するまで、大里は島の政治の中心でした。2つのお寺や優婆夷宝明(うばいほうめい)神社もあり、島の有力家菊池3家なども存在しました。

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