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優婆夷宝明神社

平安時代前期の967年に施行された延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)(八丈島に関する最も古い記録)には、伊豆国加茂郡の神社として、優婆夷命(うばいのみこと)神社と許志伎命(こしきのみこと)神社が載っています。このため、この2つは式内社といわれています。 現在では、この2神は合祀され優婆夷宝明神社となっており、八丈島の総鎮守(そうちんじゅ)とされています 。八丈島には母子交合伝説である「丹娜婆(たなば)伝説」がありますが、この親子と同じようなものと考えられています。  現在の三島市の三嶋神社(元々は三島は御島ともいわれたとされている)は、758年が初見で、始め三宅島(賀茂郡三島郷。一般に三島郷はなく、伊豆諸島や伊豆半島南部を意味したともいわれます)にあり、後に下田の白浜(賀茂郡大社郷)に移り、その後現在の三島市(田方郡小河郷。1180年以前)に移ったとされています。  現在の三嶋神社の祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)となっています。祭神は、元々は大山祇命でしたが、江戸時代、国学が盛んになる中、平田篤胤(ひらたあつたね)によって事代主命とされ1873(明治6)年に変更、その後の新たな見解があらわれ、1917(大正6)年に大山祇命に戻されています。現在の祭神は、大山祇命としながら、両者が祭られています。  神話では、大山祇命は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子とされ、山のことを担当する神。事代主命は国つ神(以前から住んでいた人々)・大国主命(おおくにぬしみこと)の子とされ、父の大国主命に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫)に国を譲ることを勧め、国を出たとされています。伊豆七島の伝説では、事代主命は、出雲(いずも)の国を出て三宅島たどり着き、10島に后(きさき)を置き、ここで亡くなったとされています。大山祇命と天照大神は兄弟で、天(あま)つ神(朝鮮半島から来た現天皇家の祖先とされる)であり、大国主命は国つ神です。  これと別に、三宅島壬生家に伝わり壬生家の由来も伝える『三嶋大明神縁起』があります。『三宅記』と総称され、各地に多くの別名の写本類があります。 元々の成立は鎌倉時代末とされています。これによれば、三島神は、天竺(インド)で生まれ、支那(中国)・高麗(朝鮮)を経て日本に来て、駿河の富士山頂で神様と会い、伊豆に行き10島を生み出し、さらに三宅島に行って、10島に后神(きさきがみ)をおいたといわれています。八丈には、后神である八十八ヱ后(やそやえのきさき)と、その子・五郎王子(宝明神)がいたとされています。これは、前記の優婆夷命と許志伎命と同じとみなされるものです。  八丈では、事代主が三島神社の祭神で伊豆七島を支配し、前に述べたと同じように各島に后を置いたということになっているので、江戸時代後期の話ということになると思われます。つまり、 事代主命伝説と三宅記をミックスしたような話になっています。  なお、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく。神道を復活し、仏教をなくすという考え)によって、神仏習合(しんぶつしゅうごう。神と仏は一体のものとする考え方で、奈良時代からずっとこの考えが行われてきた)であった優婆夷神社と長楽寺(大善寺)、許志伎(宝)神社と宗福寺の関係は断絶され、一時宗福寺の僧侶も普通人にさせられました(姓の「源」も「水原」に変更)。  神社の優婆夷神の木彫御神体には、室町時代の八丈の支配者であった神奈川(現在の横浜あたり)の奥山宗麟奉献の文字があり、都の指定文化財です。  社地には、稲荷(いなり)神社(祭神:倉稲魂命=くらいなたまのみこと)や松尾神社(祭神:月夜見命=つきよみのみこと)、三島神社(祭神:大山祇命)、礒(いそ)神社(祭神:住吉大神)、戸隠(とがくし)神社(祭神:天手力男命=たじからおのみこと)などが祀られています。この戸隠神社は、八丈小島離島の際に鳥打地区から移されたものです。  この三島神社は、元々永郷(えいごう)にあったものが、津波(噴火)で三根の中道に移され、その後、三根以外の4地区に分社されたものの1つと思われます。一応は、宝明神(許志伎命)は三島神(三島神の子ども)だともされており、各5地域に三島神が存在することになりました。  境内で発見された「古瀬戸鉄釉(こせとてつゆう)こま犬」は、15世紀製作の大変古い陶製狛犬です。1974(昭和49)年に優婆夷明神社境内で頭部と胴体が折られた「吽形(うんぎょう)」の方が発見されたもので、「阿形(あぎょう)」は行方不明です。八丈島歴史民俗資料館に展示されて いて、町指定文化財 です。  社殿裏にある1853(嘉永6)年奉納のキリシタン灯籠は、石工仙次郎の作で織部灯籠とも呼ばれ、町指定文化財 。この灯篭は、キリシタン信仰とは無関係です。  明治時代ぐらいまでは、優婆夷明神と宝明神の祭りは別々だったようですが、現在は一緒に11月中旬ぐらいに行われています。

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