ガイド選択画面に戻る

八丈島甘藷由来碑

この石碑は、大里・馬路(うまじ)の菊池家の墓地に建っており、1811(文化8)年、大賀郷(おおかごう)名主、菊池秀右衛門武昌が新島から赤サツマイモ種を持参して八丈島に広め、その息子の小源太が1822(文政5)年にハンスというサツマイモ種を移入したことを伝えています。  江戸時代の八丈島の主食は、いも(里芋のこと)とアシタバの根っこであったといわれています。八丈島は飢饉の島で、徳川幕府も頻繁(ひんぱん)に援助をしていましたが、このサツマイモの普及によって、飢饉が減ったとはいわれています。  八丈島のサツマイモ は、享保年中、将軍吉宗時代の青木昆陽による食糧政策の一環として幕府から種芋(10個)と効能書が渡され、1726(享保10)年に栽培を覚えた樫立村(かしたてむら)から他の村々に広まったことが、『八丈島年代記』・『海島風土記』・『伊豆諸島巡見記録集』などに記録されています。御船預り(おふねあずかり)の服部義高は、1811(文化8)年出版の著書『八丈裁衣織(はちじょうたちぎおり)』で「今では島中第一の食粮(しょくりょう)」と書いています。このため、流人和田藤左衛門(1728(享保13)年流罪、1769(明和6)年病死)は、サツマイモの切り干しを始めたとされ、現在にもキンボとして残っています。  この品種1種類時代は100 年ほど続きましたが、秀右衛門たちの2種類導入によって3種類となり、八丈でのサツマイモの普及定着は大きく前進し、第2次大戦後まで八丈島の主食といわれるほどのものになりました。

前のページに戻る