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宇喜多秀家の墓

宇喜多秀家は、備前美作(びぜんみまさか。今の岡山県)など47万4,000石の領主です。関ヶ原の合戦に敗れ、1606(慶長11)年33歳で八丈島に流罪(主従13人)されました。これが徳川幕府の伊豆諸島での流刑第一号にあたります 。在島50年、83歳で亡くなりました。 墓は東里の外稲場にあります。八丈島では仏門に帰依(きえ)したといわれ、名を「久福(きゅうふく)」に改めました。秀家が菩提寺(ぼだいじ)の宗福寺を詠んだ歌は2首あり、「御菩提のたねや植けん此寺にみのりの秋ぞ久しかるべき」が知られています。  大坂冬の陣の翌年、前田家から「前田の臣として、10万石を与えたい」という打診がありました。秀家は、居住(いず)まいを正して、「私はかつては豊臣家五大老の一人。いまさら禄(ろく)を食(は)む気はないから、折角(せっかく)のご厚意なれど、この儀(ぎ)だけはお断りしたい」と使者を帰したといわれています。秀家の一徹さを物語る話です。  八丈に流されてすぐ、秀家の妻・豪の母の芳春院(ほうしゅんいん。お松の方)は秀家への援助の手を差し伸べています。また、豪は家来の沢橋兵太夫を使って将軍への籠訴(かごそ)をさせ、幕府からの命令で、前田家から宇喜多家への定期的な援助を約束させていました。  宇喜多家は、定期的な前田家の援助もあり、飢饉の島である八丈島で生き延び、幕末には20家の子孫がいたといわれています。なお、明治維新で、宇喜多家は赦免され、主要な7家は板橋の前田家下屋敷に引き取られています。現在、そのうちの3家が八丈島に帰ってきています。

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