1844(天保15)年流罪となり、1884(明治17)年に77歳で亡くなりました。末吉(すえよし)地域の長戸路屋敷の現在の建物は、1861~1864(文久年間)に彼が棟梁(とうりょう)となり建てたものです。八丈島第一の大工で、島に多大な貢献をしました。1860(万延元)年の利衛門騒動の時に、騒動仲間の誘いをうけましたが、役所に届けて褒美(ほうび)をもらっています。記録で見ると、明治14年最後の赦免でも赦免されなかったのは、留五郎ただ一人で、なぜか赦免されることなく明治17年に死亡しています。墓は東里の外稲場で、宇喜多秀家の墓地に入って行く細道の手前の左側にあります。