富士箱根伊豆国立公園の八丈島は、東京から287km、伊豆諸島の南部に位置し、南国情緒あふれる花と緑と温泉の島です。高知の室戸岬や長崎の佐世保市とほぼ同緯度にあり、平均気温は鹿児島とほぼ変わらず、温暖な気候に恵まれています。面積は69.11㎢(国土地理院)。坂下エリアの三根(みつね)、大賀郷(おおかごう)と坂上エリアの樫立(かしたて)、中之郷(なかのごう)、末吉(すえよし)の5つの地域に分かれています。地熱発電所が稼働してから(現在再開発中)は、自然エネルギーの島としてもクローズアップされてきています。
八丈本島から西に4kmほど隔てて、八丈小島があります。かつて2村の時代もありましたが、1969(昭和44)年3月に集団離島し現在は無人島で、クロアシアホウドリの繁殖地になっています。
産物は豊かで、漁獲量の変動は大きいものの、新鮮なカツオ、トビウオ、ムロアジ、キンメダイなどの海の幸、健康野菜のアシタバ、八丈フルーツレモン、クサヤや焼酎などは、旅人の味覚を十分に楽しませてくれます。
名産「黄八丈(きはちじょう)」は鮮明な色彩と、美しい色合いにおいては他に類がないとされています。鎌倉時代ぐらいから絹織物は上納されたとされ、「黄八丈」の黄・樺・黒の3色の起源や成立期は不明ですが、江戸時代は年貢として重要視されました。江戸時代中期から富裕層向けに市販されはじめ、歌舞伎役者が舞台衣装とした黄色が印象的に見えたこともあり、「黄八丈」として有名になりました。町娘の憧れの的で、高嶺の花だった黄八丈は、江戸時代末期にはまがいものが出まわるほどの人気でした。今日では数少ない優れた草木染めの手織物として国の伝統的工芸品に指定されています。
大賀郷大里(おおさと)地区は、全域に玉石垣(たまいしがき)が築かれていて、大変珍しい独特の景観で、人気の観光スポットです。また、即興で叩く「八丈太鼓」は創作太鼓のルーツといわれ、樫立地域で伝承されている「場踊(ばおどり)」は、室町時代が起源とされています。
島の街路はハイビスカスの花で彩られ、ストレリチア、フリージアなどの花の生産地でもあります。一年中緑が映えるフェニックス・ロベレニー、ビロウヤシ、ケンチャヤシなどのヤシ類も多く、国内有数の観葉植物の産地です。これらは、元々は八丈島のものではなく、海外などからの移入種で、園芸の歴史は大正時代にさかのぼります。
樫立の旧八丈温泉ホテル敷地内などには、約7,000年前(縄文時代前期初頭)の湯浜遺跡(ゆばまいせき)と、約5,000年前(縄文時代中期)の倉輪遺跡(くらわいせき)があり、倉輪遺跡からは本州各地の縄文土器をはじめ、イノシシの骨、埋葬人骨3体と副葬品などが出土しています、副葬品の「の」字状石製品などは、出土事例の少ないものですが全国に広範囲にあり、中国東北部との関連も指摘されています。また、八丈島、八丈小島には、縄文時代の貝輪の原料・オオツタノハガイが生息していたことも確認されました。
八重根遺跡(やえねいせき)は、八重根漁港の築港作業中に発見されたもので、未解明な部分はありますが、弥生時代から江戸時代にかけての遺跡で、古墳時代頃の大型の海産物を煮炊きしたと思われる壺・甕・鉢の独特の遺物が大量に出土しています。また、江戸時代初期の大地震による地割れとそこに津波の砂が包含された層が発見されています。
火の潟遺跡(ひのがたいせき)は、珍しく八丈富士の永郷(えいごう)地区で発見された、平安時代頃の製塩遺跡です。ここの製塩土器は、珍しいことに北周りで千葉あたりから入ってきたと思われるバケツ型土器を使用していて、西日本系文化の八丈島では珍しい事例です。
奈良時代以降、伊豆諸島は東方海上交通の要衝であった「伊豆国(いずのくに)」に属し、郷里制のもとでの行政区分は「伊豆国賀茂郡三島郷」でした(正規には三島郷はないと思われ、三島は伊豆諸島を意味するのではないかといわれる)。平安時代には亀卜(きぼく)占いに長じた伊豆の島人が神祇官として朝廷に仕えていました。また、平安時代の延喜式神名帳には、優婆夷命(うばいのみこと)神社、許志伎命(こしきのみこと)神社が記載され、これは現在合祀されて優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)となっています。
江戸時代に入ると、八丈島は伊豆の他の島々と同様に流刑地として位置づけられ、1606(慶長11)年、関ヶ原の戦いの敗将・宇喜多秀家が最初に配流されました。以来、1871(明治4)年までに約1,900人が八丈島流罪となりましたが、病気などで江戸に残ったり、三宅島での船待ち中に死んでいる者を差し引くと、実際に八丈島に送られてきた流人は1,770人ほど。村民5戸で組織された「五人組合」が流人1人を預かり、面倒をみていましたが、中には島民の生活・文化面に業績を残した流人も多く、流刑制度は功罪両面を包蔵していたといわれています。